今、私の願い事が叶うならば。

こんにちは!

 

ああ、文才が欲しい。そして人の心に訴えかけられる何か。

 

今、私の願い事が叶うならば、翼じゃなくて、文才が欲しい。

いや、ほら分かるだろう。

このご時世、空の旅がしたければ、飛行機がある。

お金がなくても、LCCで満足してよ。

そんな切実に、「翼を願う」程、この時代はきれいじゃない。

まあ、もちろん、それは、歌詞であって、歌であって、その時代を風刺するようにはできていないのだから、「翼をください」って歌ができた 1971年がきれいだったとは言わない。

知らんけど。

 

文才が欲しいのである。

こんなこと言うなんて、甘えだって僕も薄々気づいてる。

「欲しい」って言って得られるのは、お金で買えるものくらいなのかもしれない。

まあ、その「お金」の本質こそ対価となるのだろうから、詰まるところ対価さえ払えるものなら「欲しい」はいつか得られるのかもしれない。

 

ただ、「文才」や「画力」やら「その他の秀でたもの」は、単にお金さえ払えば得られるものではないのであろう。

仮に、そうだったとしても、結局教室に通うなり、今なら通信教育でもいいや、で「時間」もその「欲しい」ものを得るための対価なのかもしれないなって考えたりする。

 

その「時間」って、作るものだっていうけど、お金さえあれば、すぐ作れるんだと思ってた。

けど、よく考えてみたら、これ程愚かな勘違いはなくって、お金があるから、時間が創造できるわけじゃないんだなって、最近思う、と思う。

 

「思う、と思う。」っていうのは、きっとまだ勘違いはどこかに身を潜め、本質は霞んで見えてるんだと思うから。

対価だって、犠牲だって、究極の話、結果の話は変わらないような気もするし。

本質を見れる人ってすごいと思う。

 

思うことだらけ。

考えてはない。思うだけ。

 

 

では!